久富用水と中島安平
稲の作付面積では、県内で9番目の筑後市。広い範囲の稲作を支えているのは、市の豊富な水源です。しかし、その水を得るため、命をかけて用水路工事をした人が約300年前にいたことを知っていますか。その人の名は、中島 安平。当時水不足で深刻な状況にあった久富地区に水を引くため、山の井川が流れる徳久地区から幅約2メートル、長さ約3キロにわたって用水路を造りました。
何とか村人のためにと一大決心をした安平は、用水路の計画づくりのため、実際に歩いて現地調査を行い、徳久地区から羽犬塚地区にかけて用水路を通すことにしました。苦労の末周到な計画書を作成した安平は、久留米藩主に工事を願いますが、許可されません。後日再び願い出ますが、今度は関係する数十カ所の村人の反対にも遭いまたもや失敗。さらに世間を騒がせた罪で、安平は投獄されてしまいます。しかし安平の意志は固く、出獄後3回目の申請をし、願いがかなうようにと3週間熊野神社にこもりました。その努力のかいあって、ついに工事の許可は下りることに。しかしそれは「完成しなかったら命はない」という、藩の厳しい条件付きのものでした。
工事が始まっても、いろんな困難が安平を苦しめました。しかし、私財を投げ出してでも用水路を完成させようとする安平の情熱がついに実を結び、計画から約30年後に久富用水は完成しました。
現在も地区唯一の用水路として約50ヘクタールの農地に豊富な水を運んでいる久富用水。地元の人たちから尊敬を込めて「いでみぞ爺さん」と呼ばれる安平は、その功績を称え、農業の神として祭られています。
出展『筑後市史』第3巻、筑後水利功労の人々(右田 乙次郎著)
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所在地:筑後市大字久富